傍目考 part3「文化大革命から15年の西安」

2013年4月 

 

中華料理のこと

魚の活けジメや茗荷はともかく、生きている鶏や大蒜の下処理は好まなかった。だから料理人になりそこなった。まして中国料理は苦手。昭和20年代の後半、1950年代のある時期、支那そばは30円だった。小さいときからラーメンが好きだったし、後に冷中華(麺)も好きになった。むろん、あとから分かったことだけど、あえて分類すれば、それは和食だからである。


母親が大蒜のにおいを嫌ったこともあって、餃子を食べられるようになったのは、二十歳も過ぎてからだ。何かのサークルの合宿で、上級生の手前、餃子を食ないわけにはいかなくなった。無理して飲み込んだのだけれど、密かに「おいしい」と思った。これが中国料理のわが事始めだったのである。


たしか、1987-8年ごろ、あることで中国にいく必要があった。「by order of government」とのことで、パスポートの表紙は、レッドではなくグリーンの表紙となる。中国のある国家機関の招待によるテクニカルツアーだった、泊・食に選択の余地はない。否応なく中国料理の攻勢となる。そうそう自由に外に出歩けないし、兌換券(外貨兌換券/(FEC=Foreign Exchange Certificate 後述)だったので、食べるものも買い物も限られた場所でしかできなかった。笑顔を浮かべながら、沈んだまま箸を動かしていた。


ある晩、きょうは有名な餃子店とかいうので、その昔の餃子の味を思い出し、今夜は美味しいモノにありつけそうだと期待したのだが、日式焼き餃子は、残念ながら40数種類のうちのひとつでしかなかった。記憶は定かではないが、
その日は、たしか西安人民大廈に泊まった。中国とロシアが緊密な関係であった頃の、ロシアの設計によるホテルである。

 

後のガーデンホテル、唐華賓館は施工中であった。たしか、ららぽーと(三井不動産系)の出資で、マネジメントコントラクトはホテルオークラだったように思う。なにしろ、当時の西安もまた電力不足で、この西安人民大廈という大きな建物のなかの照明は、ローソクみたいな光だった。このオペレーションではほぼ真っ暗である。メインバーみたいなところで、唐華賓館の「開業準備室長」のような方に出会った。たしかWさんという。ホテルオークラから出向していた方かもしれない。この大廈を宿舎代わりに住まいしている。そこで、食事はどうされているのか伺ったら、「ここの料理は結構いけるよ」という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                1987-8年頃の面影を残した「西安人民大廈」

                     現在の「西安人民大廈」写真:http://www.panoramio.com/user/612306?with_photo_id=7747407

おきまりの洋式朝食ではなく、別注で何か作ってもらうべく、やや遅めに「メインダイニング」に出て行って、筆談でお願いしたら、献立を見せてくれたが、料理の名前などさっぱり分からないし、どこかで見た名前があったから、試しに「青椒肉絲」を注文した。


あろうことか、磁器の国で駄皿にこんもりなのだが、よく見ると、ピーマンと筍がまさに「絲」になっている。味は少々辛い四川風。ともかくおいしい。中国料理の予備知識はまったくなかったので、よくわからなかったが、おいしかった。いま思えば牡蠣オイルや醤の類を上手に組み合わせたのだと思う。そして、「絲」の歯触りがよろしい。筆者が中国料理に惹かれたのはこのときからである。


この数年、中国には年に2-3回行く感じだが、西安まではなかなか行けない。都合4回だけである。1992年に鄧小平の南方講和がある。それからの西安はご多分に漏れず様変わりである。それを予期しての西華賓館の出店であったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        西安・大雁塔(高さ64M)に隣接する「西華賓館」 設計は張錦秋によると聞いた。

西安は意外に大都市だ。 西安の市区は1,166 平方キロ(東京都の倍くらい)、市区の人口(2007年)で423.5 万人(東京都の半分弱)。

 

東京都は減少の一途だが、いまの西安はもっと増えているであろう。海抜は405 m(信州・松本空港が660M、コロラド・デンバーが1650Mくらい)。西安市は東京タワーよりは上のところの山あいの街である。言わずと知れた昔日の長安で、往年の秦・漢・隋・唐の首都。いわば京都のベンチマークであった。

したがって、いまや世界中の著名なホテルが出店しているであろう。西安人民大廈も改築されたという。抜け駆けして「青椒肉絲」にありつきたいものだが、いまは夢のかなたにある。


その後、唐華賓館に泊した折り、「薬膳」をいただいた。効能があるものはすべて使ってあるという。期ぜず、霊験あらたか、この料理の効能は追求に十分値すると思った。

兌換券のこと
 

後で調べると、兌換券は、1980年4月から94年末まで通用した。それで話は1987-8年のころに戻る。田中角栄の中国訪問から15年、文化大革命終焉後10年、鄧の南方講話の5年前くらいの時代である。外人旅行者は一般の中国紙幣・人民元(RMB)は使えず、両替してくれるのは外貨兌換券 (FEC=Foreign Exchange Certificate)であった。

 

         当時の外貨兌換券(100FEC)と、10FEC、50FECに使われた絵柄(観光地)

むろん、1RMB=1FECではあるのだが、それが表向きの話。日本の終戦後の闇ドルとおなじことで、RMB<FECである。したがって、通訳兼ガイドに買い物を頼むと喜ばれるのは当然である。

 

日本はバブル真っ盛り、我が東京の不動産をもってすればアメリカの(半分くらいは)買える、ロックフェラーセンターも手ぶるビーチも買収できた(後年とんでもないことになるが)。わが世の春だったから、日本円(JPY)や日本語の値打ちは結構高かった。


通訳兼ガイドは仲良くなるといろんなことを話してくれる。


「キミたちの給料はどのくらいだ」
「100 RMB」
「では、このプロジェクトの主催者(中国政府官僚)の給料は?」
「100RMB。趙紫陽や江沢民だって、実力者の鄧小平も100RMBなのだ」
「では我々が使っているクルマの運転手も100 RMBか」
「彼らは服務員だからちがう。労働省は2つあるのだ」
「officerとworkerの差か?」
「そのとおりだ」
「officerだっていろいろあるだろう、100 RMBなのか」
「そうだ、しかし彼らは身分証明書で、(タダで)買い物ができるのだ」
「そうだろうね、100RMBということは、日本円でせいぜい3000円」
「ではキミも党員になるのか」
「否、ボクは外資系で働く」
「なぜ」
「外資系の従業員は政府の保護から外れるのだ、政府が用意する住宅も健康保険もいらないと誓約すれば、あとは自由、100RMBではなくなる、だから、日本に呼んでほしい、なにかないと外国には行けないんだ・・・」


あれから25年。もはや立場が逆になりつつある。在中国のあるファッションビジネス関係者と・・・。


「いま。中国の人件費は年に10%、ベトナムは17%あがっているね?」
「中国のアパレルメーカーだってたいへんだ」
「チャイナプラスワンか?」
「いまやそれも遅い、日本の会社はなにやるにも遅い」
「中国アパレルはいずれ銀座に攻め込んでくるだろう?」
「いずれね、でも銀座は後回し。そのまえに欧州と米州を攻める、欧州からだ」
「それで、東欧に工場を出すのか?」
「・・・、欧州で成功すれば、銀座は取れるから、だいぶ先のことだが・・・」
「そうなると・・・?」
「日本政府は貿易制限・通貨管理するだろうね、日本政府が兌換券、ありうるのではないか」
「アジアは中国の天下か?」
「もともと中華思想、しかしその中国を脅かすのは、インドかロシアか、日本は世界地図で東の超・端っこだからね、上海だって東の端だし・・・、稼げるうちに稼ぐことさ・・・」(不尽)→  傍目考part4は、PDFよりご覧ください。

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